どうせ死ぬのだから
どうせ死ぬのになんで生きるんだろう。と小学生の頃から思い続けてはや30年。その答えはまだ出ないが「どうせ死ぬ」という価値観には2つの側面があるという話。
2021-06-12 00:08:58
入力時間 / 13:48
死について考えることが子供の頃から好きでした。好きというか、不思議というか。宇宙開闢以来どんな生命もおそらく逃れたものはいないであろう死。死ぬという結末がわかっていながら生を受けるという不思議。
いまでもぼんやり生きるとはなにか、死ぬとはなにか、なんてことを考えることが好きな私ですが「どうせ死ぬのに」という感覚は私が生きていく上でとても重要で便利な2つの側面を持っています。
どうせ死ぬのだからどーでもいい
死んだら無に帰すのみなのだから、仕事とか人間関係とか納期とか失敗とかどうでもいい!と辛いときに思うことにしています。するとあら不思議。死ぬことを考えれば大体のことはどーでもよくなっちゃう!だって遅かれ早かれどうせ死ぬのだから。死んでしまえば辛いもシンドイも無いからね。だから死ぬことを思えば大体のことは乗り切れる。言うなればどうせ死ぬのだから自分を許そうという感じかな。
どうせ死ぬのだから頑張ろう
もうひとつの側面は、まぁ意味合い的には同じなんですが、どうせ死ぬのだから頑張っても大丈夫!という側面。頑張っても死ぬ、頑張らなくても死ぬ。だったら頑張って死んだほうがまだマシじゃね?という感覚。どうせ死ぬという結末から逃れられないのであれば、すこしでも有意義に少しでも高みを目指して死んだほうがまだ意味がありそう。という自分を高めるための解釈。
ということで私はこの2つの「どうせ死ぬのだから」という解釈をその時々で使い分けて生きています。前者の解釈は宇宙からみたときの無限小の自分を前提とし、後者の解釈は自分からみたときの無限大の自分を前提として考えているのだろうなと思います。
ようは「死」という不可避なイベントを使って自分をうまくコントロールするってのが人生で肝要なんじゃないかなと私は思っています。
すすんで死にたくはないけれど、遅かれ早かれいずれたどり着く場所ですからね。実際に死に相対したときに「満足な人生だった」なんて思えたら最高だろうな。
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