他人に生かされ、自分に殺される
忙殺されて10日もブログを書いていなかったようだ。
2012-11-12 07:35:48
入力時間 / 19:00
気がつくと無職5年目突入。いまから4年前の2008年11月に私は会社を辞めたのだ。11月1日に書こうと思っていたのにすっかり忘れていた。光陰矢のごとしとはよく言ったもんですね。
丸々4年間の無職生活の中で最も感じていること。
それが標題の「他人に生かされ、自分に殺される」ということ。
他人に生かされるということ
自分は自分で生きているように感じることもあるけれど、実際は他人によって生かされている。生かされているという表現が適切かどうかはわからないが、何かしらの原動力は確かに自分以外からによって得られると私は感じている。例えば「何かをつくりたい」と思う気持ちは少なくとも自分自身しか存在しない世界ではあり得ないものだろう。
何かをつくることも、何かを表現することも、誰かがいてはじめて成立することだ。もちろん人に限った事ではないが。例えばやりたくない仕事だとか、苦手なクライアントだとか、そういった平時に置いては自分自身がネガティブに感じている要素すら自分自身を生かす要素になっていたりする。それはつまり自分以外によって自分が生かされているということだ。
自分に殺されるということ
やりたくない。やる気がでない。やらない。自分を殺す要素はすべからく自分自身から生まれる要素だ。自分ができない事も、自分がやらない事も、すべての責任は自分にのみある。それを理由や口実を付けて誰かや何かのせいにする。でも自分が死ぬことはあくまで自分の責任だ。世界は自分を許容してくれているのに。
自分は誰かに殺される事は無いだろう。もし自分が殺されるとすれば、それは自分以外にはあり得ない。結局のところ、自分の心持ち次第とですよねどんな事も。できる・できないなんて問題は最初から存在せず、できない・やらないと自分を殺すのはいつでも自分だ。
無職生活が長くなるにつれて、精神が人生に及ぼす影響の甚大さを痛感します。
決して折れることのない強く逞しい健全な精神を。
無職5年目、弛むこと無く研鑽していきたいと思っております。
この4年間、私に関わってくれた全ての人に感謝です。
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