他人と比べるなら努力の量を
社会で生きていると望む望まないに関わらず人と関係を持ち、時には比べる事を強いられるわけですが。
2015-01-21 05:20:30
入力時間 / 09:30
価値が相対的に決まるのであれば、比較の発生を防ぐことは難しい。では何を比較すべきかと考えるなら、私は「努力の量」こそを比較して然るべきだと思うのですがどうでしょうか。
先ほどの記事にも書きましたが、知識・才能・経験・収入・待遇・幸福・容姿・ちんちんの大きさなどなど、人間は人と比較して優位に立ちたい生き物。それはきっと恐らくそういう風に生まれながらに設計されているからなのではないか。思春期の若者なら誰しも一度はちんちんを定規で測ったことがあるのではないでしょうか。
しかし、いずれ気がつく事ですがそれらを比較する事は意味を持たない事なんですよね。なぜなら生まれも育ちも環境もすべてが異なっている状況下に置いて、価値自体が相対的で曖昧なものであるにも関わらず、それを同じ定規で測ったところで優劣もへったくれも無いから。
であれば比較する上で最も透明で公平な物差しは何かと考えれば、それは「時間」なんじゃないかなと私は思う。時間は誰にも等しく1日24時間与えられてますからね。そして努力とは多くの場合、捧げた時間の量に比例するじゃないですか。アインシュタインの名言に「私は天才ではありません。ただ、人より長く一つのことと付き合っていただけです。」というのがありますが、どれだけ自分の持っている時間を多く捧げたかって大事な物差しなんじゃないかな。
そういう意味では人と比較した時に「誰よりも時間を費やした!努力した!」と胸を張って言える事を目指すのが人生では肝要なのかなと思います。まぁそんなだいそれた事、言える日がくるとは思えないけれど、少なくともそこを目指すことはできるからね。
ということで私は才能とかそういう言葉が嫌いです。
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