誰に評価される
社会で生きていくということは社会から評価されることと同義だが、それに囚われることは人生の本質を損なう事と同じだよねという話。
2014-02-24 16:27:19
入力時間 / 16:17
情報社会が加速する中でSNSや食べログ・Amazon、目に見える形になった「評価」を目にする機会はうんと増えた。それと同時に自分への評価もどんどんビジュアライズされていくのかなと思うと少しゾッとする。「行動に対して評価がある」のではなく「評価されるために行動する」という錯誤が生まれそうな気がして。
自分は誰かのために生まれたわけでも、誰かのために生きるわけでもなく、自分は自分だから生きるのだと私は思っている。故に対外的な評価を意識して人生の方向舵を切るのは違うのではないかなとも思っている。しかし、これだけ評価が視覚化された現代においては、それらの評価を無視するのは至難と言える。
Facebookに例えるなら、多くのLikeを集めるために日々更新するような人生に一体なんの価値が。いや、それも人生のひとつの形なのかもしれないけれど、でも人は対外的な評価を得るために生まれてきたわけではないと私は思うんだ。周囲からの評価は副次的な結果のひとつでしかなく、そのことが目的となってしまっては意味が無いのではないかなと。
私が望むのは私からの評価。周囲の誰からの評価でもなく、やはり私自身からの評価こそが人生の意義だと思う。自分自身の納得とでも言おうか、誰からどう評価されても構わないし、誰からどう評価されてもよくわかんないけど、自分からの評価だけは誰だって絶対でしょう。
いつまでも自分の意志に忠実でありたいな~と昔メモった以下の文章を読み返して思った次第です。
元サイトはもうなくなっていたけれど、良い文章ですよね。
人生はそう、一杯のコーヒー
有名大学を卒業して輝かしいキャリアを今まさに築いている若者たちが、久し振りに母校の教授を訪ねたときのお話です。
会話はすぐに仕事や日常のグチの言い合いに発展する中、教授は教え子にコーヒーを振舞うためにキッチンへ向かいました。
数分後に教授は、大きなコーヒーポットと色とりどりのコーヒーカップを携えて戻ってくると、それぞれに好きなカップにコーヒーを注ぐように言いました。
陶器、ガラス、クリスタル…、もちろんプラスチックの白いコップまで。教え子は各々が選んだカップにコーヒーを注ぎ終えてカップを手にしたとき、教授は優しく話し始めました。
「ここに白いプラスチックのコップが残りましたね。みなさんが選んだカップは確かに美しいし、高価なものばかりだ。もちろん、せっかくなのだから良い器でコーヒーを飲みたいと考えるのは普通です。しかし、そういったものが人生においては、問題となりストレスになるものなのです」
教授は続けます。
「カップそのものがコーヒーの味を変えないことは、みなさんわかっていらっしゃる。みなさんが選んだカップはただ高価なだけです。時としてそういうカップは、私たちが飲むものを隠すために使われることもありますけれども」
「今、私たちはコーヒーが飲みたかった。カップが欲しかったわけではありません。しかしあなたがたは綺麗なカップを意図して選び、そして他の人が選んだカップにそれぞれ目を配っています」
「人生はそう、一杯のコーヒーのようなものです。そして仕事、お金、名誉や地位は、みなカップです。そのカップがなんであろうと、人生が勝手に決まったり、あるいは人生を変えてくれるなんてことはありません。私たちにはときどき、カップだけしか目に入らなくなってしまうときがあります。そんなとき私たちは、せっかく与えられた自分だけの"コーヒー"を楽しめなくなってしまうものです」
そして教授は最後に言いました。
「さあ、コーヒーを楽しみましょう」
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