うつ病とドM
先日、いつものようにニュースサイト巡りをしていると興味深い記事が。
2012-04-12 05:08:23
入力時間 / 16:16
脳前頭葉に「不安の源」米マサチューセッツ工科大チーム、サルで実験(数ヶ月後にはリンク切れになってるでしょう)というものです。うちの母がなかなかいい感じでうつ病でして、かれこれ私が小学生になるかならないかそれくらいから。25年くらいになるんですかね入退院のくり返し。そんなもんでちょっと気になるニュースでして。
うつ病患者は「報酬」を過小評価する
なるほどなと。そういう説明だとしっくりくるな~と思いました。これが無気力の源なのかと。まぁ言ってみれば人生って苦痛の塊みたいなもんで、その苦痛の対価として幸福感(報酬)が得られるようにプログラミングされているわけで、うつ病の人は苦痛に対して得られる幸福感を過小評価するから生きるのがツライと。なるほどなるほど。
まぁでもこれ程度の差こそあれ誰でも大なり小なり感じてるもんではありますよね。努力なんてまさにそれの最たるもんで努力しない人は報酬を過小評価してるから努力しないんでしょうねぇ。もったいない。
ドMはうつ病にならないんじゃないか説
そこで私が提唱したいのはドMはうつ病にならないんじゃないだろうかという説。過去にも書きましたがまぁ私はドMですよね。ドMって痛みとか苦痛とか羞恥とか、多くの人が不快に感じることを快感として受け入れるキャパシティを持っているわけですよ。つまり苦痛・不快の先に幸福(報酬)があろうが無かろうが、すべてを受け入れてる時点で幸福なんです。すごく良いように言えば視野が広いというか懐が深いというか。
これはドM全般に言える事だと思うんですがドMは主観ではなく客観に近いと思うんですよ。「あぁ痛い」と思ってる自分を外からみて「あぁ俺痛がってるぅうぅゾクゾク」みたいな。変態丸出しですね。「自分の感覚」ではなく「自分を含めた状況そのものを外側から楽しむ感覚」がいわゆるドMというものなんだと思うんです。深いですね。
まぁ私はこんな人間なんで頑張ってもうつ病にはならないでしょう。
しかし投薬によってうつ病や不安を抑制できると考えると、それはそれで怖いですよね。
個性とか自分の性格なんて思ってるものが生理的にプログラミングされた結果だって事ですからね。
自分という存在はあやふやな存在なんだなと改めて実感させられる記事でした。
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