アーマード・コアとUIとカタルシス
アーマード・コアVの発売が待ち切れない和田です。
2012-01-17 03:31:40
入力時間 / 10:36
いや、違うんですよ。ゲームやりたいとかそういうことじゃないんです。アーマード・コアVは言うなればインターフェースの勉強のために渋々買うんです。渋々遊ぶんです。ちがうんです。決して遊びたいだけじゃないんです。
発売前の生放送を見て興奮冷めやらぬ状態でこんなこと書いてすいません。
アーマード・コアというゲームは大雑把に言うとロボットを操縦するゲームなんですが、その操作方法たるやすんごい難しいんですよ。操作方法はこちらをご覧ください。コントローラーのほとんどのボタンをフル活用しないとうまく動いてくれないんですねロボット。まぁロボットを動かすってそれくらい大変な事なんですけどね。
しかしことOSやアプリケーション、Webにおいては「難しい操作・難解な操作はNG」という意識が定着していますよね。もちろんこれはターゲットユーザによる所もあるのですが、この乖離はいったいなぜ生まれるのかという事を考えてみたいなと。
カタルシス
カタルシスとは排便のことらしい。転じて抑圧からの解放を意味したりしますよね。つまり「とても難しい操作」「うまく動かせないというイライラ」といった抑圧から、転じて「うまく操作できる」ようになることの解放がカタルシスを生むのかなと。これはプログラムやコンピュータでも同様の事が言えるかもしれません。
MS-DOS時代、DOSコマンドをソラで打てるだけでちょっとした達成感がありましたよね。プログラミングも言語を書けるというだけでちょっとした達成感があります。それらは「習得しなくてはならない」という抑圧・ハードルを乗り越えた先にある「解放」によってもたらされるものなんですよねやはり。
インターフェースが進化してどんどん簡便・容易になっていく過程でこういったカタルシスが失われていくかもしれないってのは、そういった時代を生きてきた私にとってはちょっぴり複雑かなという気もします。もちろんこれは住み分けの話ですしターゲットの話なので混同はできませんけど。
インターフェースやコンピューティングの進化が、ただ「習得しなくてもいい」という安易な方向に進むと人間はひょっとすると堕落してしまうのかなとも思う。「難しいことを習得する」「難しかった事が簡単にできるようになる」って快感はこの先もやっぱり存在してほしいなと思う。
ということを踏まえると安易な簡素化ってひょっとしたら罪なのかなと思うのでした。
アーマード・コアV、待ちきれなくて失禁しそうだぜっ!!
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