社会からの評価はアテにならない
なんでもそうですけど、大衆の評価って本当にいい加減ですよね。
2011-05-21 02:29:00
入力時間 / 16:44
なにもこれは私への評価が云々という話ではないんですが。私なんぞは過分な評価を頂いているのでむしろ穴があったら入りたいくらいですが、この世界には価値があっても評価されない物があまりに多いというお話です。
社会からの評価とは、つまり多数決みたいなもんですよね。しかも人間はいい加減なもんで他人の付けた評価を鵜呑みにする傾向があります。なので「他の介在を許さない純然な自分自身のみによる評価」というのは人間社会においては存在しないのかもしれません。
なので評価とは基本的に多数決で決まる場合が多いと思うんですね。企業や製品への評価などはより顕著で、支持数が即ち売上や販売数に直結する場合は少なくありません。しかしそれら大衆の評価・支持がその物の本質を正確に捉えているかというと前述のとおり懐疑的です。
同様に過分な評価ではなく「もっと評価されてもいいのに」という事がこの世界にはまだまだ蔓延っていると思うんです。インターネットの普及やリコメンドの浸透によってこれらはfixされるかと思っていたのですが、どうやら人間社会が本質を絶対基準で評価できるようになるまでにはまだまだ時間がかかりそうです。
というのも評価する人間の質が問われる類においては、その人間がその価値を理解できなければ評価できないという致命的な欠陥を孕んでいるためです。それはどういうことかと言うと、馬鹿が多ければ例えどれだけ優れた物や人物であっても馬鹿は評価することができないのです。
そしてこの社会を形成する大部分が馬鹿です。つまりは現社会において評価されているものの大部分は「馬鹿がわかるレベルで評価されているもの」であって、その真の価値を示すこととはかけ離れているということです。
もちろん「評価されるため」に何かをするわけじゃありませんから、別に評価なんてどうでもよいことなのですが、真の価値を評価できないばかりに本当に優れたものが埋没していくのは正直悲しいことですよね。現代社会においてすでにそういう風潮になっていますが大衆に迎合されるもののみに傾倒してしまえば日本のIT業界やゲーム業界のように質が低下するのは必然でしょう。
ということで社会からの評価はアテにならない。
そしてそもそも社会からの評価を考えて動くことは駄目になることだと私は思います。
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