人が死ぬと何故悲しいのか
日本を代表するアニメーション映画監督の今敏さんがお亡くなりになりました。
2010-08-26 04:09:16
入力時間 / 27:32
46歳という若さで。早すぎますね。今敏さんの作品、実際見たこと無いんですけど、今敏さんの監督した映画「パプリカ」の主題歌「白虎野の娘(平沢進)」はハードディスクが擦り切れるほど聴いております。
今敏さんのブログの最後のエントリを読んで不覚にも涙してしまいました。なんで人が死ぬと悲しいんだろう。この涙がいったい何処からくるのか私は知らない。
死というものはやはり色々と考えさせられる。このブログでも死生観に関する事を何度も書いてますが、それでもやっぱり考えちゃいますよね。私も今敏さんのように最後のエントリ(または最後のツイート)をする日がくるんだろうな。そういえばレポーターの梨本さんもつい最近お亡くなりになられましたね。ツイッターやブログの更新が最後になるということに時流を感じます。
で、人が死ぬとなぜ悲しいのか。だって絶対にそれを迎える事がわかっているのになんで悲しいのか。すごい不思議ですよね。不可避だってわかっていてもやはり死とは身近であればあるほど悲しいもの。死ぬこと。つまりは生命の消失。生命とは時間であり情報であり記録。それを失うこと。不謹慎に聞こえるかもしれないがハードディスクをフォーマットしてしまうことに似ているのかもしれない。
その人間の背景を知らなければ強い悲しみは抱かない。その人間の背景を知っているからこそ、悲しいという感情が沸き起こるのだろう。世界の何処かにいる誰かが死んでも私は悲しみはしない。でも私の身近な人が死んだら私は悲しむだろう。それはその身近な人の生前の記憶があるからに他ならない。
人間のもつ背景とは即ち人格を表し、人格とは即ち世界観だ。各々世界観があり、その世界観に同調したり或いは共感したり、ある意味で人間関係とはその相手の世界に同居することなんじゃないか。死ぬとその世界への扉は閉じられてしまう。その世界へ遊びに行けなくなるからきっと悲しいんじゃないだろうか。
クリエイターやアーティストが死んでしまったらその人達はもう作品をつくれない。作品とは世界観だ。死んでしまった人たちの新しい作品を見ることができないのはとても悲しい。人が死ぬっていうことは突き詰めればそういう事なんじゃないかな。
人が死ぬのは悲しい。それが何処からくるのかやっぱりよくわからない。
今敏さんちょいと早すぎますが46年間お疲れ様でした。
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