朱に交わればシャツを出す
学生の頃ってズボンからシャツ出したりしませんでした?私はしてました。
2010-08-05 13:02:39
入力時間 / 12:13
ワイシャツをズボンから出してみたりネクタイを外したりゆるめたりして。そんな学生を見かけると「だらしないなぁ」と思う反面、自分にもそういう時代があったので気恥ずかしい感じがするもんです。私はなぜあの頃、ズボンからシャツを出していたのだろうか。今日はそれを考えてみたいと思います。
31歳の今、客観的に考えてズボンからシャツを出すのはだらしないと思うしカッコイイとは到底思えない。でもガラスの十代の和田はきっとそれがカッコイイと思っていたのだろう。だからやってたんだろうし。じゃぁなぜそれをカッコイイと思ったのだろうか。
恐らくは周囲がやってたから。この一事に尽きるのではないかなと。
朱に交われば赤くなるという事なのだろう。いわゆる流されるというやつです。
そう考えると「カッコイイ」とか「カッコ悪い」とかって何なんだろう。自分の周囲の多数派を「カッコイイ」と思うのだろうか。必ずしもそうではないはずだ。ではなぜ私はあの頃シャツをズボンから出していたのか。本当にカッコイイと思っていたのか?それとも周囲に同調することがカッコイイことなのか?謎は深まるばかりである。
いま私の思う「カッコイイ」は本当に私の思う「カッコイイ」なのか。誰かに思わされている「カッコイイ」じゃないのか?私の価値観や判断基準は本当に私のものなのか。それとも周囲の人間により赤く染められているだけなのか。ハッキリ言ってわからない。
人間は例えどんな人であろうとも朱に交わればやはり赤くなるのだろう。であるならばその朱を選ぶことが大切なのかもしれない。誰と交わり誰の価値観に染められるのか。自分で選べる選択肢って案外少ないのかもしれない。
自分の価値観の起源を考えてみるのもなかなかどうして面白いもんですね。
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