相対的価値観とレーティング
レーティングはヤバいかも。すごい楽しい。
2010-02-14 19:16:12
入力時間 / 17:25
以前にもレーティング機能はおもしろいっ!というエントリを書きましたが、改めてレーティングはおもしれぇなと。
基本的に付けられるレートは気にしません。でもやっぱり1とかが付くと「え~!なんで~!?」って思う。前回のエントリも1が多くて逆に笑った。でもきっとそれは事実だから私とレートを付けた人との価値観の間には溝があるのかなとも思う。そしてそれを数値として閲覧できるというのはスゴいですよね。
実際に面と向かって人と接して悪態を付く人はそう居ない。でもレーティングであれば自身の価値観へのジャッジを気軽に受け止める事ができる。それが社会の、世間一般の価値観と比べてどうなのか。と言うことですよね。これってスゴい事じゃないですかね。これは実名文化だと実現できない圧倒的なメリット。匿名だからこそ忌憚のない意見・評価を受けられるというのはね。
しかしインターネット上ではステルスマーケティングをはじめとする作為的な評価が溢れている。それはApp StoreやAmazonでも未だに問題となっているが、一般人がそれらを認知する事は正直難しいだろう。そう考えると匿名のメリットも打ち消されてしまい兼ねない。ここまでくるとモラルの問題だろうからね。
このようにレーティングやレビューは多くの問題を抱えているわけですが、それでもこの市場には確実に未来があると断言できる。なぜなら情報の正確性を求める場合、必ず評価・レビューは必要になるためだ。もっと言えば情報の正確性を体現できるロジックが生まれたならば、間違いなくインターネット社会の基盤となることだろう。そしてそれをやるのもGoogleかもしれない。
自分で自分の価値観は測れない。例えどれだけ客観的に自身の思考を見たとしても、それすら主観であることに変わりはないためだ。もちろん他者の評価を受けて自身の価値観を変える必要は無いと思う。それでも他者との距離感を測る上でレーティングとは思いのほか有用かもしれない。
「常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう」とはアインシュタインのお言葉。レーティングはその偏見に満ちた自身の「常識」と外界との温度差を測る体温計のようなものなのかもしれない。
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