信用・信頼という幻想
ここ久しく人を、何かを信用したり信頼した事は無い気がする。
2010-01-18 03:34:12
入力時間 / 10:58
信用とか信頼とか。都合のいい言葉だと思う。「信用する」や「信頼する」という言葉はあまりに無責任で利己的だなと。「期待する」という事もほぼ同義だが、基本的には一方通行で相手に依存する事に違いはない。だから私は信用しないし信頼しないし、期待をかけることもない。もちろん言葉として活用することはあるが。
信用、信頼、期待。その類の言葉は相手に対して何かを求めること。信用や信頼とは相手を判断し、それに足ると判断・予測した時はじめて成立する言葉ではあるが、自身が相手に成り代われない事を踏まえるとあくまで独りよがりの願望の域を出ない。にもかかわらず信用・信頼をかけた結果が思わしくない場合に「裏切られた」となるのはおかしい話ではないか?
信用し信頼し期待をかけた結果、自身の思惑から外れたとしたらそれは自分が悪いわけですよね。自身に集積した判断材料から導き出された信用・信頼が覆されたならば自身の判断基準が間違っていたとなるのが道理。であるならば「裏切られた」とは絶対になるはずはない。自身の不徳の致すところだ。
であることから私は人を信頼しないし信用もしない。他人の心は不可侵で束縛できないものだから。何人も他人の人生に口出しはできないし、する権利も有していない。人の心は常に変わり続けるし、変わることを決して非難することはできない。
以上のことから、信用や信頼、期待という言葉はあまり好きではない。
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