和田憲幸のブログ

札幌市白石区在住、個人事業のWebエンジニア 和田憲幸(45歳)のブログです。

自分という幻想

自分と知覚しているのは自分だけであって自分なんてものは存在しないという話。

2009-07-06 22:02:08
入力時間 / 35:39

自分とは幻想である。私は和田憲幸という名を親に授けてもらった人間だが、私は自分なのか。それとも。

自己・自我・自分。私を構成している要素をすべて紐解けばそこに私たる要素はひとつも無い。そう。すべて外的要素の寄せ集めなのだ。すくなくとも和田憲幸という個体は。だから識別子は和田憲幸ではあるものの、私は自分が自分では無い。

人間は生きる年数を重ねるにつれ「自分」という漠然とした先入観や価値観に悩まされる事が多々ある。中には自分探しの旅に出るものもいるほどで、いつの世も「自分らしさ」「個性」というよくわからないものに振り回され、意識し、試行錯誤の後、「自分」を振舞うことだろう。

しかしよく考えれば自分なんてものははなから存在しない事を知るだろう。和田憲幸という個体の持つ意識や価値観、遺伝子、容姿、社会的立場、仕事、能力、知能。ようはすべてが外的要素によって形成され、築き上げられているに過ぎないことは明白である。外的要素のみによって構成されているのであればそこに「自分」は無い。

もっとも、それらの外的要素を組み合わせたパターンが自分と言えば言えない事もないが、それでもその中に完全な独自性があるかという、独自性など欠片も存在しないだろう。言うなれば受け売りの集大成が個体。だから、私があなたであれば私はあなたになっただろうし、あなたが私であれば同様にあなたが私になっただろう。

つまり人間の精神とは幻想であり、自分は存在しない。ただの形骸だ。
だから自分について悩む必要も無ければ、それについて考える必要も無い。

犯罪者がいたとする。私がその犯罪者と同じ境遇で生まれたのであれば私も同じ犯罪を犯した事だろう。

生まれてきた人間に精神など無い。
すべては経験の蓄積であり周囲からの恩恵を多分に受けた賜物なのだ。

私が今こうあれるのはすべてが周囲の人間のおかげだ。
私が犯罪者にならずに済んだのはやはり家族を含めた私に接してくれた社会のおかげだ。

自分のありようなどその程度のもので。生まれつき自分が自分なわけではない。
名前のように、いつの間にか気が付けば周囲から与えられているものである。

だから「自分」を固める必要は無いし、他人を見るときも自分として見る事が肝要ではないか。

今私がこうあれるのはすべてが私を取り巻くすべての人間や環境の賜物だと感じている。
私を形成してくれたすべての要素に感謝の気持ちを伝えたい。ありがとう。

P.302