和田憲幸のブログ

札幌市白石区在住、個人事業のWebエンジニア 和田憲幸(45歳)のブログです。

時間の密度

人間が一生のうちに使える時間の量は限られているわけですが、時間の密度は人によってそれぞれですよね。

2009-05-15 05:53:14
入力時間 / 15:14

時計はデジタルよりもアナログに愛を感じます。
和田家の目覚まし時計 その名もコケコ(コケッコー!!とすごいうるさくて寝起きはすごいムカつく)

皆さんは目覚まし時計を使っていますか?私も在職中は目覚まし時計が必須の人間だったのですが、それでも遅刻する事が多くありました。そもそも決まった時間に行動するという生活にあまり慣れていなかったのかもしれません。「規則正しい生活」は私にとって苦痛以外の何ものでもなく、大きなストレスのひとつでした。

常々思っていた事ですが、規則正しく時間通りに動く慣習自体に懐疑的であり、その理由をいつも知りたかったわけです。理由はとても簡単で、多くの人間がその規則に則って生活しているからという事のみ。私のように社会不適合者の見地からすれば、それは規則正しい生活を送るに足る理由ではありませんでした。

そもそもアインシュタインの相対性理論でも述べられている通り、時間はすべての人間にとって平等ではありません。時間の密度が希薄な人間も居れば、濃密な人間も居ます。それらを混同して一律の規則を押し付ける事はあまりに馬鹿げている。人間各個が別々な時間の単位を持っているわけだから、それをごちゃ混ぜにしてしまっては、何がなにやらわからない。

そうですね。あえてFlashに例えるのであれば、人間や生物ひとつひとつが独立したムービークリップであり、そのムービークリップ内では独立したタイムラインを保持しているわけです。もちろん_rootの干渉を受ける事はあるでしょう。でもそれは絶対的規則ではなく、あくまで大枠の基準でしかない。つまり一般的な「時間」という概念は社会全体の共通の基準ではあるものの規則にはなり得ないということ。

そして誰しも生物は自分の時間の密度を持っている。密度の希薄な人間は歳を重ねても未熟だし、密度の高い人間は例え若くても成熟している。それらの価値基準を齢というまったく無価値な基準で測ってはいけない。日本は齢という基準を重んじる風潮がある。もちろん歳を重ねた人間を敬う心は大切だが、それに傾倒してしまっては人間の価値という本質から乖離してしまう。

いま目覚まし時計の無い生活を送って思うことは、人は自由な時間を生きるべきだということだ。

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