独りの自分と社会の中の自分
自分と言ってもその立ち位置によって自分は様々な側面を持っているものです。
2009-04-28 10:52:39
入力時間 / 16:30
自分独りで生きているのであれば何にも縛られずに生きていく事ができるし、自由に自分の意見を表現する事ができるでしょう。それは独りの自分であるから。他者への気配りを必要としないから。でも、一歩社会に足を踏み入れるとそうは簡単にいかない。
自分を取り巻く様々な周囲の人間関係を考慮して発言し、表現しなくてはならない。それは人間関係ないし、社会の秩序を守るために強いられるものだ。しかし、周囲のそれらを考慮した発言や表現はそもそも自身が本当に発言・表現したかった事なのだろうか。
他者を傷つけまいと言葉や表現をオブラートに包む行為やそれ自体を回避する行為は自身を歪曲させ、本質から逸脱した行為ではないだろうか。自身が本音を語ることによって他者を傷つける事があっても良いのではないか。
私は可能な限り、他者への気配り無く発言したいと思っているし、自身が本当にやりたいと思ったことをやりたいと思っている。他者へ気を使い嫌われないように努めるくらいなら、全然嫌われていいと思っている。そもそも嫌われたら駄目なのか。人間はえてして良い子で居たいようだが、別に嫌われてもいいんじゃないか。自分を曲げてまで良い子で居る必要はないのではないか。
もちろんそれが社会に大きな迷惑をかけるのであれば論外であるが、他人の目を気にして生きていく事はストレスにはならないのだろうか。私のように社会からはみ出している人間からすると、社会という枠の中に収まることは非常に窮屈に思える。大きな声で「ウンコ!」と言えない人生にいったい何の価値があるのか。
社会とはルールであり、秩序の象徴である。やはり社会との接点を断絶する事はできないが、社会というルールの中にどっぷり浸かりたいとは到底思わない。自分が思い、感じ、行動したいように行動して、発言したいように発言したいと思う。例えそれが身近な誰かを傷つける事になったとしても、それを曲げるつもりはない。私が本当にそう思っているのだから。
当然、こういう人間のため周囲の人間はどんどん離れていくわけだが、別にそれが悲しいことだとも、惜しい事だとも特段思わない。それはそういうものなんでしょう。人間関係は無理して構築するものではない。人間関係は自分の行動や発言に付いてくるオマケみたいなもんです。それ自体が目的ではない。
人間関係に疲弊した方の話をよく聞くが、やはり私のような人間からすると理解に苦しむ点が多々ある。わざわざ苦しむのであれば最初から人間関係など持たねば良いだけの話。ストレスを感じてまで維持するに値しない。
人生で最も大切なのは自分の意志であり、自分の目的。
それらを必達するためだけに人間は存在しているのではないだろうか。
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