理解と痛みと
おそらく多くの場合、理解をする上で必ず痛みを伴うのではないだろうか。
2009-01-27 21:57:34
入力時間 / 11:28
真の理解とは必ず痛みを伴うものだと私は考える。所謂、痛感するというもの。
それ故に、本当の意味で理解できたとき、すでに手遅れという事はよくあるのではないだろうか。
私が小学生の頃はまだ学校で体罰がよくあったし、廊下に立たされたり、廊下で給食を食べさせられたりすることもままあった。今ならYahooトピックスに表示されるような事もあった。当然、私も教師に殴られたこともあったし。でもそれが悪いことだとは全く思わない。なぜなら痛みの先には必ず理解があったからだ。
してはいけない
してはいけない事をやるのは、やっぱりいけないことだ。でも子供はやっぱりやってしまう。それは何故か。子供はもちろんしてはいけない事を知っている。でも知っているだけで決して理解していない。なぜしてはいけないのか。することによってどうなるのか。その理解を促すためにも「痛み」は必要だと私は考える。
なぜ痛いのか
その痛みの理由。それは肉体的なものであったり、精神的なものであったり。動物はみな痛みを嫌う。だからこそ「痛み」には価値があるのではないか。無碍に体罰を批判するのではなく、なぜそこに体罰があったか、それが適切かどうかという点にもっと目を向けるべきではないだろうか。
失恋の痛み
私はよくフラれる人間ですが、別れたあと「もっと優しくしておけばよかった」などと愚かなことを考える。それは痛みによってもたらされた理解に他ならない。そうやって痛みがあるから人間は本質に目を向け、理解し成長していけるのではないか。
痛みがない人生に価値などない。痛みがあるからこそ喜びを知ることができる。戦争があるからこそ、平和を享受できる。不幸があるからこそ幸福を実感できる。全ては対になっていて一片だけでは充足することができない。
ということで体罰はあってもいいと思うけどなぁ。
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