あたりまえ
あたかもそれが未来永劫続くかのようにあたりまえを享受してます。
2008-12-28 04:14:42
入力時間 / 17:02
息をする事も、手が動く事も、キーボードを見ずに文字を入力できることも、Perlでプログラムが書ける事も。
あたりまえという罠。常態化という悪癖。
時に人間は今があたりまえだと思ってしまうものです。
家族が一緒に居るのがあたりまえだったり。
仕事があるのがあたりまえだったり。
健康なのがあたりまえだったり。
平和なのがあたりまえだったり。
ドラえもんに「ありがたみわかり機」という道具がありまして。その道具を通してのび太は空気のありがたみや母親のありがたみを知る訳なんですが。小さい頃読んだ本ですが今でも記憶に残ってます。逆にそのあたりまえを実感するのはそのあたりまえが崩壊した時なんですよね。もちろんそれじゃ遅いわけなんですけど。
私は手が動く事、足が動く事、こうして聡明な人間に生まれてくる事ができたこを、全てをなるだけ意識的に感謝するように心がけています。考えなくても手や足が動くってすごいですよね。あたりまえに普段から動いてくれてるコイツらですけど、何の文句も言わず付いてきてくれる身体には一番お世話になってます。
あたりまえ、と感じたとき。いやあたりまえだから感じていないのかもしれない。あたりまえには感謝が無い。それがあたりまえだから。当然だから。仕事でもよく陥りがちですが「仕事をやるあたりまえ」じゃ良い仕事はできないと思う。仕事やお客様に対する感謝の気持ちというか。「あたりまえ」になった段階で怠慢なんだろうな。
生きる事が「あたりまえ」になったら人生終わりだ。明日死ぬかもしれない人生だからこそ実のある人生を送れるのではないかと。日本は平和すぎて、そういう部分を含めて意識が希薄になりがちだけど、いまこうしてブログを書ける事、そしてそのブログを読んでくれる人がいることもやっぱり幸せな事だと思う。
本当に私はまるで綱渡りのように素晴らしい人々との出会いと運によって今を生きてる幸運な人間です。今まで出会ってきた誰一人欠いたとしても今の自分には到底成り得なかったと断言できます。それはお客さんだったり、付き合った女だったり、お師匠様だったり、バイト先だったり、勤務先の上司だったり、アップルだったり、メールフォームについて質問してくる人だったり。駄目人間だったり。
それら無数のインスタンスが和田憲幸というアプリケーションを形成している。
もちろん和田憲幸クラスを設計してくれた親にも感謝してる。
2008年を締めるにはちょっと早いけど、こんな未熟な私でもなんとか2008年を生きる事ができたことに本当に感謝している。健康に生きる事ができて本当に幸せである。ありがとう。
多くのありがたみを頂き、今の私は成る。それを忘れてしまってはいけない。もちろん自分にも感謝している。自分にも感謝している。よく頑張ってるよ俺。今年もよく頑張った。
だからこそ来年を迎える事ができれば、惰性にならず、一生懸命に生きよう。
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