和田憲幸のブログ

札幌市白石区在住、個人事業のWebエンジニア 和田憲幸(44歳)のブログです。

自殺願望と鬱病

私には自殺願望があります。そして私の母は鬱病なんですが。

2009-02-07 00:58:39
入力時間 / 32:14

一応、念のため。自殺は絶対にしませんよ。あと別にテンションが落ちてるわけじゃありませんよっ!
いつもの元気なオナニー大好き和田憲幸ですからご心配なさらずに。

死んでも自殺は無いと思いますが、ふとした瞬間に死にたくなる事ってありません?母は私が小学生の頃から鬱病で入退院を繰り返しており、何度か自殺未遂もしておりまして。それに関してとくに私が何かを思うことはないんですが。どうしても死にたいのであればその意志は尊重してもいいと思っているので。たとえそれが心神喪失状態であったとしても。

現代社会の鬱病

鬱病患者の方はえてして周囲からは「怠けている」とか「単に甘えている」と見られることが多い。でも決してそうではないんです。そうではないと周囲が理解することからはじまるのですが、まぁ難しいんですよね。いまはすごく増えていますよね鬱病。潜在疾患者は膨大な量になるとか。むしろその鬱病の線引きが困難な事によって、様々な不正が起こっているのも事実です。プチ鬱なんて言葉もあるくらいで。ただ鬱病は本当にだれもが発症する可能性がある病気だと言うことは確かです。

鬱病と夏休みの宿題

私が考える鬱病とは夏休みの宿題のようなもので。「やらなければいけない」けど「できない」。というのが私の母を含めた鬱病の方が感じていること。これはなにも鬱病の人間に限った話ではありません。「借金を返したい」けど「返せない」のと同じです。明確に何かしらのやらなければならない事があるにも関わらず、それを達成できない虚脱感というのでしょうか。それはほぼモチベーションの問題なんですよね。ようはモチベーションを管理する機能がうまく動作しないってことです。その機能を回復させるには周囲の人間の協力が必要不可欠なのです。

鬱病の人に言ってはいけないこと

鬱病の方は「がんばれ」という言葉を嫌うようで。母にもやはり禁句でした。「がんばれ」という言葉はどこか客観的で外側から自分を理解しない人間が無神経に投げかけてくる言葉だと受け止めてしまう事があるようです。そう。「がんばる」こと自体が「できない」から鬱病なんですよね。それは不眠症の人に「早く寝ろ」と言うようなもの。重圧以外のなにものでもありません。

しなくてはならない。という事はない

そのため鬱病の人にもまず理解してほしいのが、別に適当で良いということ。がんばる必要は無いということ。いまの現状を受け入れると言うこと。鬱病を治す必要すら無いのかもしれません。だから鬱病と向き合う必要も無いし、鬱病という言葉すら忘れてしまってもよいのです。人は「言葉」に必ず囚われるから。何かを「しなくてはならない」という事は人生でまず無いんですよね。「しなくてはならない」というのは純粋に重荷であって、それは決してポジティブな要素では無い。「やりたい」から「する」のであって「生きたい」から「生きる」のだと思う。だから人生は「生きなくてはならない」のでは無い。

受け入れること

ともあれ、現状をすべて受け入れること。どんなに不遇であろうとも、その事象そのものをねじ曲げることはできません。それがたとえ鬱病であろうとも。そして鬱病はそれほど忌み嫌うものではない。なんなら鬱病と一緒に人生を送っていけばいい。たとえば醜悪な容姿で生まれた人間が居たとしよう。どんなに醜悪な容姿で生まれようとも、その醜悪な容姿はまさに自分。その自分を自ら忌み嫌う必要は無い。人生をその容姿とずっと一緒に生きていくわけだ。そこは仲良くやっていくべきであって、鬱病もそういうことだと思う。鬱病は心因性や外因性など。風邪ひくのと同じようなもんで、決して特別な病気ではない。だから決して「鬱病=不幸」とはならない。醜悪な容姿を持って生まれた人間が総じて不幸では無いように。

自殺願望はみんなあるでしょう

私は自殺願望があるのですが、だいたい皆さんありますよね?たまにですがふっと死にたくなること。だってそりゃ長い人生、生きてたら死にたくなることくらいあるじゃない。私は「何もない」時にフッと死にたくなりますね。「死にたい!」じゃなくて「死のうかな」ですが。痛いのとか殺されるのは嫌ですが、それほど死が特別に嫌では無いというか。どうせ遅かれ早かれ死にますしね。ただ、マリオのように残機があるわけじゃないし、せっかくお父さんとお母さんの奇跡の結晶としてこの世に生を受けることができたわけだし、自分から死んではもったいないとは思う。自分のことかなり好きだし。大好きだし。もっと二度寝したいしね。

死んでもいい

で、私は死んでもいいと思う。自殺しようという人間には誰もが「死ぬな」と言うが、別に自分が死ぬ権利を持っていても良いとおもう。人に迷惑をかけなければ。むしろ私は常に「よっぽど苦しくなれば死ねばいいかな」と思っている。そう思えばどんなことも苦では無くなるから。死ぬということはこの世界から存在が消えるということ。こうして身体を動かすことも、空気を吸うことも、そこらへんを歩くことも、カップラーメンを食べることも、寝ることも出来なくなってしまう。そしてただでさえ人間の命は有限であり、死は不可避な存在なのだ。それゆえ自らその命を絶つことはおそらくないだろう。どのみち死は訪れるのだ。それであれば死が来るまではこの現世での苦痛を楽しもうではないか。

わりとみんな大変

みんな大変です。そう。「苦しんでいるのは私だけ」という事はありません。もちろん他人の苦しみを理解することは不可能です。それでも別な部分でみんななにかしら苦しんでいます。だからそう自分を悲観する必要は無いんです。鬱病の方と同じ苦しみを理解することは不可能です。それは断言できます。人間同士の相互理解は幻想であり、人間は所詮孤独な生き物です。自分の精神から抜け出すことはできません。だからみんな大変なんです。私も大変です。

苦難・苦痛を楽しむ

苦難や苦痛さえも生きることの悦びに他ならない。なぜなら死んでしまってはその苦痛さえも感じることはできないから。幸福を求める事が人生ではない。辛いことや痛みもやはり人生の醍醐味であり、それは逆に幸福という逆説的な一面がある。苦しみだけに囚われてはそれらは見えないが、苦しさ・痛さもやはり人生そのものなのだ。札幌は寒いが寒い地域では、寒い地域なりの幸福がある。ひときわ寒い日の鍋はまさに格別。これはきっと沖縄などの南国に住む人間には決して知り得ないこと。つまり苦痛とは敬遠するに値しない。受け入れて然るべき存在。

私の父さんの会社が倒産し自己破産した。企業倒産は3度、身をもって体験したがそれを不幸だと思ったことはない。なぜなら一般の人間よりもオイシイ体験をしたからだ。「父さんの会社が倒産した」というダジャレを使える人間はおそらく少数派だろう。それはとてもオイシイ事だ。なにせ日本という国ではなにをやってもなんだかんだで食っていける。この国に生まれた時点でいろんな意味で幸せだ。

幸福の定義

つまり幸福とは人から与えられるものでもなく自ら求めるものでもなく、常時自分の周囲をまとっている空気のようなもの。問題はその目に見えない「幸福」に気づくかどうかだと私は思う。

人間は往々にして足下を見失う生き物ではあるが、地に足を付けてじっくりと自分と対話できる時間は必要だね。

P.165